毎年8月27日に霧ヶ峰の旧御射山遺跡(長野県文化財)で開催される御射山祭に参加してきました。

例年きっちりと8月27日に開催されることは何度もこのブログで紹介していますが、今年は木曜日で平日の真ん中でした。幹事三人は会社を休んでの参加です。

今年は、「霧ヶ峰草原史(仮)」の作成にあたって、遺跡の性質を再確認しました。以下、遺跡の広がりと年代についてまとめました。

まず、遺跡の広がり位置についてです。写真中央が旧御射山のやしろで、写真右上の南西側斜面の土段は、かつて5日間行われたとされる御射山祭に集まった人々の宿泊場所とされていることは有名です。しかし、やしろを中心に土段が3面有るはずで残りの2面がどこにあるのか、土段が不明確なので分かりにくい状況です。そこで、諏訪信仰史の地図*1を現在の地形と位置合わせをして確認したところ、沢渡からの砂利道の上まで土段が広がっており、下の写真を撮影している位置は東側斜面の北の端であることがわかりました。なお、残りの北西斜面はヒュッテ御射山から八島ヶ池へ向かって左側の斜面でした。詳しくは、文末のグーグルマップをご参照ください。

次に、祭が盛大に行われた可能性のある年代についてです。諏訪信仰史*2によれば、遺跡全面にわたって発掘された青磁が中国竜泉窯で焼かれた良質のものであり、平安中期~鎌倉中期に日本と宋の間で行われた日宋貿易でもたらされたものとしています。この他にも鎌倉時代が最盛期であったことを示唆する遺物や史料があり、この場所で祭が盛大に行われた年代が鎌倉時代であるという根拠を再確認しました。

 遺跡の位置の詳細はグーグルマップを参考にしてください。航空写真に切り替えると、南西の土段がくっきり見えます。

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*1 金井典美(1982)諏訪信仰史、名著出版、p134
*2 同p146